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ペンネーム「ラファエル」様から、無償公開神託に応募する「ご質問」をいただきました。

無償公開神託応募
質問です。
よく思うのですが、真理を知りたいと真面目に探究し、神に祈り求めても、人それぞれ「真理」だと確信する事が違ったりするのは、何故でしょうか。
結局、自分が死んだ後、自分の目であの世を見て見なければ、本当の事は分からないのでしょうか。
しかし、キリストは、
「あなたは、私を見たから信じたのか。見ずに信じる者は幸いである」
と言いました。
本当の真理が知りたいです。
それを悟るためには、一体どうすれば良いのでしょうか。
教えてください。
よろしくお願いします。
ラファエル

ご質問ありがとうございます。
ヨシュア(イエス)の言葉を引用され、ペンネームを大天使の名にするあたり、やはりクリスチャンでしょうか。
そのものずばりヨシュアから神託をいただいてみましょうか。
ヨシュアが崇めたヤハウェ(エホヴァ)には直接、神託をいただいたことはありません。

ヨシュアに精神集中してみます。

私の言葉にそのすべての意味が込められている。
あなたは自ら理解している。
あるがままに受け止めなさい。

たった3行答えると、あっというまに去ってしまいました。

私が預かった言葉の意味を、もう少しわかりやすく解説してみます。

ヨシュアがおっしゃっている真意は「見たから信じた」という人と、「見ずに信じた」という人のちがいを考えるとわかるでしょう。
あなたは「人によって真理がちがう」といいます。
そして「自分の目で見なければわからないものなのか」ともおっしゃっています。
このふたつの言葉からわかるのは、

  1. 人々が同じ真理を語らない(統一されていない)
  2. 自分の目で見たものだけが真実であり、真理は見たものにしかわからない

のふたつです。
そのあと、それとは一見、無関係に見える「(ヨシュアを)見ずに信じた者は幸い」というヨシュアの言葉をラファエルさんは引合いに出します。
あなたは意味がわかっているので、この言葉にヒントがあると気づいています。

でも、あなたは混乱しています。「どういう意味なのか」と。

では「(ヨシュアを)見て信じた者」と「(ヨシュアを)見ずに信じた者」のちがいはなんでしょうか。
「(ヨシュアを)見て信じた者」とは? ヨシュアの後光(カリスマ性)に恐れをなしたのでしょうか。それとも、ヨシュアの奇蹟を目(ま)の当たりにして、本物だと確信したのでしょうか。
「(ヨシュアを)見ずに信じた者」とは? ヨシュアの後光を知らずに信じたのはなぜでしょうか。ヨシュアの奇蹟を目の当たりにせずに、なぜ彼を信じることができたのでしょうか。

例えば、約束を守ることの大切さって、「約束を守らないといけない」と学ばないと、約束を守る大切さに絶対に気づけないものでしょうか。そんなことはないですよね。実際に失敗して相手に迷惑をかけ叱られたり、自分が人から約束を破られて嫌な思いをしたり、人のトラブルを見て「明日は我が身」と実感したりしたときに、「約束は守るべきだ」と気づくものです。

「なぜ約束を守るべきなのか」という真理に、証拠や誰かの裏付けは、いりません。
ということは、「自分の目で見る」あるいは「自分で体験する」ということが重要になってきます。

では、目で見ることができない死後の世界や神について、どのようにして気づくべきなのでしょうか。

「なぜ約束を守るべきなのか」の例で別のパターンを述べてみましょう。
約束を破ったトラブル、破られたトラブルに巻き込まれなくても、「約束をした」という事実だけで「約束を守ってくれると思われている」と考え、「自分が約束を破ると相手に迷惑をかける」と推測が立ちます。
それを「約束を守らないといけないとは習ったことがないし、叱られたこともない。どうして守らなければならないのか?」とトラブルになってから質問したものなら、どうなるか体験したことがない方でも、想像できるでしょうか。

ヨシュアは体験した証拠をもって信じる者ではなく、なにが大切なのかを常に考えていて答えが出ている者や出せる者が幸福だとおっしゃっているのです。

そこから「人々がちがうことをいっている現実からも惑わされない、ブレない、さとった自分」というひとつの方向性が示されます。その方向がさとりの方向です。

そのレベルに達した者は証拠を必要とはしませんし、人の話にも惑わされません。
「あるがままに受け止めなさい」といっているのは「見たまま」「体験したまま」という意味ではなく、「約束をしたから、約束を守ると思われている」という現実をあるがままに受け止めれば、「約束を破れば迷惑をかける」と自然にわかるということです。

あなたが「あなたは、私を見たから信じたのか。見ずに信じる者は幸いである」というヨシュアの言葉になにかを感じたという事実こそ、あるがままに受け止めれば、さとりに近づくのではないでしょうか。

その意味では、人々のいっている真理がちがうということはなんの問題もございません。
あるがままに受け止めれば、彼らは神ではないし、完成した人間でもないのです。
また地上に初めから完璧な人間が生まれる必要性はどこにあるのでしょうか。誰もが未熟な体で生まれて、死ぬまでに完成する人が少ないなかで、ヨシュアやガウタマ(ブッダ)が完成し、真理に関する多くのヒントを残してくれました。
すべての人が完成に至る過渡期であると思えば、死ぬまでに完成することが理想であるとしても、人々がちがうことをいっていることはとても自然です。

学ばずとも、体験せずとも、相手の身になって考えることができるようになると、答えが自然と出てきます。
それを常にできる人間がブレない自分、惑わされない自分となったとき、それがさとりなのです。

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