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私は、「すべての存在へ――サムシング・グレイトからの贈りもの」(渋谷直樹著総合法令出版1997年6月刊)を10年以上前に読んでから、頭では再生説(生まれ変わり)を信じなくなりました。

そこへ、一昨年から学び始めたスピリチュアル業界事情から、再生説を避けては通れない現実に直面し、「生きがいの創造――“生まれ変わりの科学”が人生を変える」(飯田史彦著PHP研究所1996年6月刊)を読んで感動していた過去を肯定したい心境から、とりあえず信じてみようということで、私のアカシック・レコード・リーディングのステップ・アップが始まりました。

今では、たびたびブログで書いておりますとおり、基本的には生まれ変わりはないけれど、自分の分身の前世をもとに自分の運命が決まるので、あるとしても問題はなく、また、矛盾すらないため、生まれ変わりはあるとして差し支(つか)えないものであると痛感しております。霊視鑑定でも前世が見えたりすることもあり、お伝えすることで、人生が好転されるお客様も多いです。

その生まれ変わりについてですが、誰しも何百という数の前世があり、前世を知りたいという要望に、実際に見えた前世が時間的にも要素的にもひとつかふたつに限られ、果たして他の何百とある前世を差し置いてまで強力でメッセージ性のある前世をピックアップしてアカシック・レコード・リーディングできているのかどうかは、判断の難しいところです。

他のアカシック・レコード・リーダーが仰っているような、少ない数で一覧表にできるはずもなく、また、たとえば、霊能者によって見えている前世はちがっても当然に思われ、私のお客様の体験談にありますような、他の霊能者と同じ前世を私から言われたことは、私のお客様の中でもやはり少数派なのです。

こういった理由から、たとえ、私のお客様で奇跡が起きて、他の霊能者に言われた前世と同じ前世を私が見ても、また、TVや噂などで、奇跡を起こした他の霊能者であっても、毎日の霊視の中で、毎回奇跡が起きているわけではないのです。

よって、TVで驚異の奇跡を起こしたと再現VTRで放送された霊能者でも、それを知って実際に霊視相談されたお客様の口こみでは、やはりというか、当然というか、「自分は驚くような内容ではなかった」とか、「奇跡は起きなかった」などと言われてしまいます。過剰な期待をされては、「必ず笑わせてくれ」と言われて戸惑うお笑い芸人のように、やる気や能力の問題ではないところで、結局、お客様のほうで落胆する結果となってしまいます。

私自身、自分の前世はいくつか見えております。とはいえ、何百とある前世の一部であり、まるで100日分の日記を書いて、そのすべてをなかなか思い出せないことに似ています。思い出している前世と、思い出せていない前世が、いずれもあり、そういえばこういう前世もあったなと思い出すほどの、あいまいなものです。

今日は突然、巻山紗依さんに「あなたの前世が急に見えた。土間の隅でわらじを編んでいる。髪を振り乱して、必死に編んでいる姿が見えた」と言われて、ハッとしました。

この心当たりのある感覚。そして、理由もなく込み上げてくる悲しい、つらかったという感情。そういえば、私はなぜか昔から、理由がわからないまま、土間が嫌いでした。古民家の風情などは好きなのに、土間だけは不快に思う自分に混乱しておりました。かまども嫌い。奉公も、雑用も嫌いです。

その過去生を思い出しました。私は家族に不幸があって身寄りがなく、身分が低いため、経済力のある家で働かせて貰いました。そこの若旦那は紗依さんでした。紗依さんはなぜか私を不憫に思い、気にかけてくださいましたが、私はそれどころではなく、お金を貯めて刃物を買い、仇討ちのため別の誰かを殺そうと躍起になっている感覚です。

土間やかまどがなぜか嫌いなほか、九州の伝説である青の洞門の物語は好きでした。これは江戸時代の仇討ち話です。

自分の現世の感情から思い当たるものがどんどん見つけられる感覚です。

この思い出した前世の悲しみや苦痛は、心の中では想像を超えたもので、感情的にリアルで苦しいものです。

よくよく考えてみれば、人類史上、現代ほど人権などを尊重された時代はほかにはなく、前世のほとんどは、現代では理解できないほどの不条理が当たり前な時代でした。思い出す前世の時代はすべて不条理で不平等な時代であることは避けられないことであり、前世のトラウマを引きずって当たり前だよな、とも気づきました。

私は常々、お客様にお伝えしているのですが、私が見えた前世の映像をヒントにするのもよいのですが、実はご本人が理由もなく嫌いなものや、理由もなく好きなものは、前世で何を思い生きていたのかということについての、最大のヒントなのです。霊能者にわずかな前世情報を聞き出すよりも、自分の好き嫌いを振り返ったほうが、手軽でたくさんのヒントを得られます。これは趣味になるほど楽しいもので、結構お勧めです。

私の体験でたとえますと、私の子供の頃の特徴としまして、無口で、人見知りで、液体や粉末を頭からかぶることが嫌いで、夜泣きをしていた時期の恐怖感は、私をあざ笑っている人々に見降ろされながら落ちていく感覚で、現世の家族さえも怖い存在でした。

食べていい物と食べてはいけない物をいちいち聞いて、食べてはいけない物を一口でも食べると死ぬと思い込んでいましたし、手を洗うとき、汚れた手からバイ菌が水道を伝って水道管の中も汚染されるのではないかと心配しておりました。

お風呂で体を洗ってもきれいになるとは信じられず、とりあえずしている感覚でした。そしてなぜか幼少のころからキリスト教と性的なものへの好奇心が強く、女性への憧れが異常で、中学生の頃は自ら女として生まれたかったと思うほどになり、高校生になって歴史上の魔女裁判の拷問器具を知ったとき、大きなショックを受けてフェミニズムに傾倒しました。女性差別をなくすべきだという執着は異常になり、夫婦別姓すら擁護するほどでした。

これらからわかるのは、何か人々から蔑(さげす)まされた体験があり、人のせいで病になって命を落としたと考えると実感があること。毒殺と溺死に違和感がなく、殺されていると実感があること。

熱心なクリスチャンで、魔女裁判の時代に多くの女性を魔女として死なせてしまった感覚があり、後悔の念からフェミニズムに執着したと考えられること。魔女裁判の拷問の酷(ひど)さを知らなかったこと。

液体や粉末など頭からかけられることが嫌いなのは、熱いシャワーをうっかり浴びたとき、鼻の中の違和感と心臓が止まる恐怖に動悸が止まらない体験もあったので、これはまさにホロコーストのガス室を思わせるものです。私はユダヤ人として殺されたのです。ドイツへの理由のわからない嫌悪感が昔からあったのも、これで納得がいくものでした。ドイツ語を聞くと命が奪われるような感覚がなぜかわいていたのです。先程の人々から蔑まされた感覚と辻褄(つじつま)が合いますね。

女性への憧れや啓蒙したい思いが強いのは、あるとき紗依さんに言われた前世の光景にいた私の姿がヨーロッパの産婆さんであったこと。言われたとき、男の都合で妊娠させられている女性たちを勇気づける日々を思い出しました。

私は変なほうの少年だったので意外と参考にならないかもしれませんが、誰しも日常の中に個性があるもので、何が好きで、何が嫌いか、何に感銘を受け、何にショックを受けたかは、最大のヒントです。

ここで大切なのは、自己陶酔を避けるため、辻褄(つじつま)が合っているかどうかは重要です。ユダヤ人として殺された過去生はドラマチックであり、杉原千畝を尊敬している私としては心のどこかでうれしいものが正直なところあります。でも、だからといって「きっとユダヤ人として殺された被害者だ」とすぐに思い込んでしまうのは、まちがえる一番の原因であり、私の場合は昔からあった理由のわからない感覚と一致するところが多かったから、慎重にそうであろうと結論付けた訳です。日ユ同祖論が好きであり、ユダヤ人としてのイエスが好きであり、イスラエルが好きであり、ドイツが嫌いであり、ドイツ語が嫌いであり、軍隊が嫌いでした。お風呂でシャワーを浴びているときにまちがえて電気を消されたときの恐怖は異常でした。トイレで消されても怖くないのにです。

すべては辻褄(つじつま)が合うかどうかが重要であり、決め手であり、霊視鑑定でもそこまでなければ私はときめきません。

みなさんも、自分の中にある好き嫌いや、感動ポイント、ショックなどを振り返って、過去生を探求してみませんか。

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