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悟りと思われるものに到達して初めて体感するものを書いておこうと思います。

インスピレーションが磨かれた頃は、食品によいバイブレーション、悪いバイブレーションがあり、インスピレーションの精度に影響を与えると知っただけでなく、食品のバイブレーションを見抜けるようになりました。

その体験から、自我と自己を統合した自己超越者、いわゆる悟り(エンライトメント)の境地に達すると、「人の自我が見抜けるようになるのではないか」と感じました。

誤解をないように言えば、ヴィパッサナー(マインドフルネス)瞑想の「今ここ(マインドフルネス)」状態が「涅槃寂静」の状態であり、ある意味、悟りの境地とはいえますが、維持がたいへんむずかしく、自己超越者とは言えず、悟り(エンライトメント)とも微妙にちがうものです。

ヴィパッサナー瞑想は「瞬間的悟り」です。自己超越者・悟り(エンライトメント)は「継続的悟り」です。

言い換えるなら、私と紗依は「瞑想をしなくともマインドフルネスでいられる」ということです。

この境地に達し、食品のバイブレーションの経験から、人を見ただけで自我が読み取れるのではないかと考えました。

試しに街へ出かけてみると、赤の他人の自我が手に取るようにわかります。

私は、仏陀のあるエピソードを思い出しました。

キサー・ゴータミーという名の若い女性が、乳児の遺体を抱えて、生き返らせる薬を半狂乱になって探していました。仏陀なら生き返らせるだろうと噂を聞いて、仏陀の前に訪れます。仏陀はその乳児を生き返らせることはせずに、ゴータミーに生き返らせる方法を教えました。「家族が誰も死んでいない家から、白いケシの実をもらってきなさい。それでその子を治しましょう」ゴータミーは急いで「家族が誰も死んでいない家」を探してまわります。

何軒まわっても見つかりません。

ヘトヘトになって、ゴータミーは自ら悟ります。

「我が子を失った悲しみは私だけの苦しみではなかった」

ゴータミーの気持ちは自然に落ち着いて、仏陀への感謝の念が湧いてきました。

このエピソードについては、高校時代に読み漁っていた仏陀の本で知っていましたが、この衝撃は忘れられないものがありました。人の相談に乗って、同じようなアドバイスがどのようにしたらできるのか、皆目見当がつかなかったのです。

親が信じる宗教では、この衝撃に匹敵する教えがなく、その指導者にも仏陀ほどの器の者はいませんでした。

どんな宗教の本、スピリチュアルの本、他の宗教家の言葉にも、このエピソードに匹敵する器の大きさは感じられず、私は本物でなければ納得できないと思いました。

それから10年、20年と生きてきても、本物が見つかりません。

私自身、人々を導く仕事に携わりながら、究極の理想、本物の悟りというものを実現しようと研究と精進を続けて参りました。

そしてついに、私が出合った本の著者、出会った人の誰もが到達していない自分になったとき、このゴータミーのエピソードは、私自身が手に取るようにわかります。

仏陀は、ゴータミーに答えを述べるのではなく、ゴータミーの自我(エゴ)を読み取り、その自我に沿ったアドバイスをして、自ら気づかせるようにしています。

仏陀は嘘をついたのに、ゴータミーは感謝の気持ちをいだきました。

人前で諭すことはせず、1対1で説き伏せるのでもなく、自我に沿ったやさしい嘘で、仏陀は愛を示し、ゴータミーに気づきを与えました。

人の自我が見えるようになるということは、ゴータミーが体験したような導きができるということになります。

人の自我が見えるということは、それだけ自分に自我がないからと言えますので、これはなかなかできないことですので、私と紗依は仏陀に近づいたのかもしれません。

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