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「怒り」について、スピリチュアル業界や一般社会で一元的に「悪いこと」と思われてしまう傾向が感じられます。

私自身、2012年11月14日付けの記事「「戦いを手放すということ」とは。」で、「怒り」が悪いことのように書いております。
ワーク受講者にも「感情的にならないように」と諭す場面があり、「怒ってはいけない」と一元的に解釈された可能性があると気づき、どのように取り上げたらよいか思案に暮れていました。

2013年4月7日付けの記事「「感謝」について」で、糸口になる結論まで到達できましたので、今日は「怒り」について、掘り下げてみようと挑戦することにいたしました。

感情としてこみ上げる「怒り」には、善も悪もありません。

誰かに対し、怒りを覚え、ひとりで感情的になることは、何の問題もありません。

しかし、「「戦いを手放すということ」とは。」で書いたとおり、相手を打ち負かすことは何の意味もないことです。

それは相手にわかってもらうことをあきらめることではありません。

相手に伝えようとすることは、冷静である限りよいことです。

無理にわからせよう、納得させようとすることはエゴであり、悪といえるでしょうが、意見なり提案なりとして伝えることは何の問題もないことです。

その意味で「感情的になる」ということはよくないことでしょう。

しかし、わからせる目的ではなく、感情として感じることや、感情を表現することは悪いことではありません。

わかってもらうための怒りではなく、怒っているということをその場でわかってもらうための怒りであるなら、それは善悪ではなく、心としての表現となると考えます。

これと紛らわしい「怒り」として、「心の表現としての怒り」のつもりで、「相手にわからせようとする怒り」となってしまうケースについて、取り上げようと思います。

「怒り」がこみ上げるとき、身体的苦痛や、精神的苦痛を味わったのなら、「心の表現としての怒り」として、何ら問題がないと考えます。

しかし、この「精神的苦痛」が、「プライドを傷つけられた」「悪気のないところで悪意があるとされた」「期待を裏切られた」としたとき、それは自分に原因があり、その「怒り」の正当性は保てないと考えます。

これは心理学的、哲学的、スピリチュアル的考察であって、常識を笠に着る人には不都合な真実となることでしょう。

これらの考察をひとつずつ取り上げましょう。

「プライドが傷つけられた」精神的苦痛の場合、そのプライドは「実態を伴わない」ために、「痛いところを突かれた」ための図星としての「怒り」であると考えます。つまり「プライドを傷つけられた」ことを理由とするとき、その「怒り」を正当化しようとすればするほど、「痛いところを突かれた」という図星となり、恥をかくだけなのです。
そもそも、「プライド」とは自分のために持つものであり、その「プライド」があると人に思われたいと思うこと自体、「プライド」を持てるほどの実態がない、あるいは実情ではないからこそであり、そう思いたい感情の裏返しとして「怒り」がこみ上げます。実態、あるいは実情があれば、人にどう思われようと動じる必要がなく、「怒り」もこみ上げないからです。

「悪気のないところで悪意があるとされた」精神的苦痛の場合、「悪気がない」としながらも、そうすることで「善意がある」、あるいは「気配りがある」と思われようとした行為について、悪く解釈されたことによる「怒り」であり、下心があった証拠です。これは、ある特定の人に対し故意に「善意がある」、あるいは「気配りがある」と思われたいからとは限らず、日頃、誰に対してもそうすることで、「自分は認められる」あるいは「尊敬される」と期待し、それが大人としての振る舞い、あるいはたしなみとして努力していたと考えます。
もし、「善意がある」あるいは「気配りがある」と思われるだろうという認識がないところで、「悪意がある」と誤解されたなら、「なぜ誤解されたのかさっぱりわからない」として混乱するだけで、「怒り」には直結しないものです。「なぜ相手の気持ちを害したか」と確認したり、そのときのやり取りを振り返ったりして、ただ疑問に思うだけです。誤解は手違いであり、誤解されたことで「怒り」を感じること自体が、「気持ちを踏みにじられた」と思いこむ根本原因が自分にある証拠です。

「期待を裏切られた」精神的苦痛の場合、これは「期待したこと」自体が勝手な感情であり、「期待どおりにするべきだ」という強要はエゴでしかなく、自己中心的な発想としかいえません。
聞いた話とはちがうという場合に限り、「話がちがう」とはいえますが、「期待していたこととちがう」という場合、「確認せずに過剰に期待した」証拠であり、「過剰に期待」すること自体が「相手に自分のエゴを満足させるよう強要する行為」であるといわざるを得ません。

以上の3点は、「精神的苦痛」だと感じられても、この「怒りを相手にわからせよう」という気持ちを正当化することはできません。

では、「正当化できる怒り」とは何でしょうか。

「怪我をされた」「体調を崩すほど五感を刺激された」などの身体的苦痛のほか、精神的苦痛としては「人とかかわらない個人的な行為を邪魔された」「人とかかわらない個人的な感情を否定された」「プライバシーにかかわることを意思確認なしに乱用された」「明らかに自分のせいではないところで悪意があるとされた」といったところでしょうか。

ここで注意したいのは、たとえ「正当化できる怒り」であっても、「心の表現としての怒り」としては許されますが、「相手にわからせようとする怒り」となった途端、それはエゴとなり、悪となります。

このちがいを簡単に表すなら、「心の表現としての怒り」は「その場だけの怒り」であり、「相手にわからせようとする怒り」は「その後も継続して心に居座り続ける怒り」といえるでしょう。

たとえ「忘れているから、継続していない」としても、「思い出したら、また腹が立ってくる」なら、それは「相手にわからせようとする怒り」といえます。

このような「相手にわからせようとする怒り」は、「心の表現としての怒り」とは同列のものではなく、「あの人の怒りは正当化されるなら、私の怒りも正当化される」とか、「自分は怒りを我慢しているのだから、あの人の怒りは正当化できない」ということはいえないということです。

「怒り」は悪いことだと、一元的にとらえられるものではないのです。

「相手にわからせようとする怒り」は、冷静な理詰めでわからせようとすることをいうものではありません。理詰めでいわれて、それでも無性に腹が立ち、素直になれないのも、それは「相手にわからせようとする怒り」がかなわないためのエゴだからです。冷静であり、素直であるなら、それは「怒り」ではないでしょう。

冷静になって考えてみませんか。

今、あなたがいだいている怒りは、どちらの怒りですか。

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