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 ゴータマ・ブッダ(釈迦)を研究(勉強)していると、器の大きさに感嘆させられる。

 ゴータマ・ブッダがヨーガで修業をし、独自に到達した彼の思索は、「[私]というものは存在しない」というものである。この逆説的な考えは、ある究極の理想を実現してみせた。

 それを例えるなら、「自分は○○である」という自己認識の無意味さである。

 このことについて、ギャーナ・ヨーガのジッドゥ・クリシュナムルティ(1895~1986)は、ゴータマ・ブッダの代弁としてではないが、同じ論説を展開している。私が読んだ「生の全体性」という書籍が手元にないので、要約して書く。

 クリシュナムルティがいうのは、「私は父である」「私は母である」「私は医師である」「私は学者である」とするとき、その人は「父」そのものではなく、「母」そのものではなく、「医師」そのものではなく、「学者」そのものではないとする。「父として振舞おう(努力しよう)としている」のであり、「母として振舞おう(努力しよう)としている」のであって、初めから「父」そのものにはなっていないし、「母」そのものにもなっていない。いずれもなることすらできないとする。「医師」についても「学者」についても同様のことがいえる。

 身体の関係性としては「父」であり、「母」であるといえるとしても、「これが父だ」あるいは「これが母だ」と体現する代表にはなり得ないというのだ。完璧で完全なる「父親像」というものは存在しないし、「母親像」というものも存在しない。自分に子があるからといって、別の誰かの「父」あるいは「母」の代弁はできない。「理想の父」というものはどこにもないし、なれない。目指すこともできない。つまり、「父」あるいは「母」という表現は関係としての意味しかないという。

 それは、「父」であることで当然のこととされることは何もないということを表明している。「母」「医師」「学者」など、すべての「私は○○である」とするときに当てはまる。「父だから、家族を守ることは当然になされる」ということを、すべての「父」である人間もそうである証明にはならないし、「母」もそうである。「医師だから必ず信頼できる」とは限らないし、「学者だから正しい」とも限らない。「私は○○である」と表現することで、何も保障されていないし、何の意味もないというのだ。

 そしてクリシュナムルティは、「父子の関係である」「母子の関係である」という知識であって、保護者としての子育て(食事を与える・住居を与えるなど)以外には、「子」に何も影響を与えることはできないとする。「我が子を理解している」とするとき、それも「我が子のある瞬間の一側面を知っている」だけのことであって、常に「子」は変化しているのだから、目の前の「我が子」が「知っている我が子」と同質であることはありえないとする。
 従って、「子」を「今、見る」ことでしか知ることができないという。「今、五感で感じる」ことで知ることができるが、それも「今」だけの「子の姿」であり、それで理解したつもりになってしまっては、「子」の真実の姿だと見誤ることになるという。現実には、「子」のすべてを理解することはできないし、常に新鮮な気持ちで接するべきだとする。

 この考え方を自分自身にも当てはめることが、クリシュナムルティとゴータマ・ブッダが実践していることである。

 クリシュナムルティとゴータマ・ブッダのちがいを私の見解で述べるなら、縁起の法を理解したゴータマ・ブッダは、相手に合うアドバイスをして、苦しみを減らす提案が卓越していたところであろうか。

 つまり、彼の遺言「自らを拠り所とし、法を拠り所とせよ」に表れているとおり、ゴータマ・ブッダは「法」を大切にした。クリシュナムルティとのちがいであり、ゴータマ・ブッダの器の大きさの秘密はここにあるであろうから、これは大きな意味をもつ。

 その「法」とはどのようなものであったかは、まったく言い伝えられていない。恐らく後世の弟子たちは理解できなかったのであろう。嘆かわしい限りである。

 この「法」を理解すれば、「悟り」や「涅槃」、「自己実現」というものがどういうものか理解できるようになる。

 トランスパーソナル心理学で私は説明できる。エンライトメントコースはそれを学べるワークである。

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