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2013年4月20日付けの記事「「怒り」について」で取り上げましたが、「怒り」には「怒って当然のもの」というものは、今後の関係性のため以外では存在しません。

本来、「怒り」とは純粋な感情であり、感情を表現するためだけに使われるべきものです。

私は、「失礼なことをされた」として怒ることはありません。鑑定などで、叱るために声を荒らげることはあります。しかし、失礼なことをされると、基本的には笑いながら指摘させていただくことが多いです。

コミュニケーションで悩んでいる人が無自覚なまま、私に対して失礼なことをした場合でも、私は会っている相手なら笑いながら指摘をできるのですが、メールなどの文章でのやり取りでは笑顔が伝わらないため、丁寧に細やかに指摘させていただきます。

コミュニケーションが苦手で悩んでいる人は、自分が相手に失礼なことをしていることに気づいていないので、コミュニケーションに支障が出て、なぜ自分が悪くいわれるのか理解できていません。

そういう方には、私のブログのDタイプの記事を読むように再三お勧めいたします。

コミュニケーションで悩んでいる人は、相手の意図を読み取れないために、コミュニケーションの支障がある自分について自己嫌悪になっておりながら、自分は悪くいわれることは原因がないはずで、なぜ自分が悪くいわれるのかと怒っている人はとても多く、自分が相手に知らないうちに失礼なことをしているかもしれないと謙虚な気持ちがなければ、そしてそれを理解しなければ、改善もされないし、自分も苦しいままになってしまうのです。

実はこれは、自分に原因があると受け入れなければならないことですので、精神的苦痛はとても大きいです。今まで「自分は悪くない。だからみんなが悪い」と思っていたのに、受け入れるときには「自分が悪い。だからみんなは悪くない」というように正反対の考え方を理解する前に受け入れ、どうしてなのかじっくり考えないといけないからです。

人間は考え方が変わるとき、じっくり考えないとなかなか理解できるところまで到達できません。

そのため、人が成長するときは、人間関係や仕事などで追いこまれ、自分が悪いとは思えないのに、自分が変わればいいのかと、冷静に自分を振り返ったときに、「自分が悪かったのか」と少しずつ理解していくものです。

つまり、理解する前に、正反対のことを一旦受け入れなければならないのです。

だからこそ、追いこまれる体験が、人生の学びとして与えられるのです。

でも誰だって、追いこまれたくないですよね。人間関係で自分だけが嫌われるとか、自分だけが否定されるとか、仕事で努力を無駄にされるとか、軽蔑されるとか、そんな体験はしたくないものです。

追いこまれず、苦痛を味わわずに成長する方法はただひとつ、一旦正反対の考え方を肯定することです。

これは精神的苦痛がともないますが、実はともなっていると思いこんでいるだけで、追いこまれたり、苦痛を人から味わわされるよりは、何も犠牲はなく、何も恥をかかないし、何も失っていないのです。

実は精神的苦痛はないのです。これが心理学でいう自我の防衛で、自我は嘘の自分ですから、怒っているのは嘘の自分であり、本当の自分の怒りではないのです。

しかし、自我は嘘の自分でありながら、自分を否定されたと怒り、嘘の自分を存続するために、怒りの原因を相手にあると決めつけることで、自分は悪くないと自分にいい聞かせます。

こうして、被害妄想と、自分を取り巻く人をみな悪い人とレッテルを張る行為が繰り返されます。

思いこみで本当は存在しない精神的苦痛を真に受けないようにして、一旦正反対の考え方を受け入れてみること。そのとき感じる怒りはだましであると理解することが、自分の成長、ひいては自分が苦しみ続けてきた人生を苦しみのない人生に変える唯一の方法です。

相手のせいにしているかぎり、自分は絶対に成長しないことを、受け入れるしかないのです。

これがコミュニケーションにおける人間性の学び、いわゆるコミュニケーションの意義です。

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