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スピリチュアルに限らず、ありがたいお話や、人を諭す場面などで、「感謝する心が大事」だとよくいわれます。

感謝することは確かによいことだと思いますが、「感謝することで幸せになれる」という考え方には素直に納得できない気持ちがありました。

尊敬する美輪明宏氏でさえも「感謝すること」を勧めていらっしゃるようで、ちょっとこれは掘り下げないといけないかなと思い、この記事を書いています。

「感謝する心」と表現するとき、何か人に心配りやお手伝いをしてもらったときの「ありがとう」と感謝の意を伝える場面のことは指さないと考えられます。なぜなら、マナーとして「ありがとう」と相手に伝えるときには「感謝の心」を必ずしももっていなくてよいからです。例えば、飲食店で食事を終えて、もうおなかいっぱいで席を立とうとする直前に、いつの間にかお茶をつがれたとしても、感謝の気持ちはありませんが「ありがとう」ということはマナーといえます。つがれそうになったと気づいていれば「結構です」と断れるでしょうが、かばんなどに目をやっているすきにお茶をつがれたのであれば仕方がありません。

一般に「感謝する心が大事」だと感服している方々は、先ほどのお茶の例は極端な例としても、「感謝の心」を必ずしももたなくていい場面で、マナーで「ありがとう」というべきときにこそ「感謝の心をもつことが大事」と思っているふしが感じられます。

つまり、「感謝する場面で感謝する心がもてるかどうかが、感謝する心があるかどうかを決める」と思いこんでいるように見えるのです。

そして、そうすることで、ご利益のように幸せが舞いこむと思いこんでいるようにすら見えます。

ここが私にとって納得できない点なのです。

「感謝すること」の本質を考えるとき、「感謝する心をもてるかどうか」を考えることはまったくのナンセンスです。

例えば、あなたが料理を振る舞ったとして、食べてくれた人から「おいしいです」と笑顔でいってくれたとき、それがマナーで社交辞令であったとしても、嫌な顔しないで食べてくださったことへの感謝の念はわくでしょう。
しかし、食べてくれる人が「感謝の心をもつことが大事」と思いこんでいる人だったとき、「料理を振る舞ってくれてありがたい! これは美味しくいただかなきゃ! 美味しい! 美味しい!」と自分にいい聞かせて笑顔を作り、「すごく美味しいです! ありがとうございます!」と感謝の気持ちをこめて表現することは、果たして本当の意味での感謝になるのでしょうか。

「感謝」とは「気持ち」です。別の「気持ち」である「好き」で例えましょう。

「好き」になることは素直な気持ちであり、そのことに善し悪しはありません。恋愛で例えましょう。

アキラさんはヒトミさんを好きになりました。ヒトミさんはアキラさんのことを何とも思っていません。ノゾミさんはアキラさんのことが好きで、ノゾミさんはいつもアキラさんのために親切にしていました。
アキラさんはある日、周りの人から「ノゾミさんがかわいそうだ」といわれ始めます。「ノゾミさんの気持ちをわかってやれよ」といわれたアキラさんは、ノゾミさんのことを好きになったほうが自分にとってもよいことだと考えました。
アキラさんからのアプローチがなくなって、そのことを気にかけていたヒトミさんが、ノゾミさんの存在を知りました。「私のことを好きだといっていたアキラさんが、ノゾミさんのために考えるようになってしまった。アキラさんのやさしさは私だけのものだと思っていたのに」 ヒトミさんはアキラさんに「ノゾミさんへの愛は本当の愛じゃないんじゃない?」と詰め寄りました。
ノゾミさんはヒトミさんの話を聞いて、アキラさんにいいました。「アキラさんがヒトミさんと相思相愛なら、私のことは忘れてください」
アキラさんは悩みました。ヒトミさんの気持ちも、ノゾミさんの気持ちもわからなくなってしまったのです。

映画かテレビドラマのような展開ですね。アキラさんの優柔不断さ、ヒトミさんの悪女っぷり、ノゾミさんの気の弱さが、事態を悪化させていますね。
ここで取り上げたいのは、アキラさんがノゾミさんを好きになろうとしたところです。ノゾミさんが親切だからとか、いい人だからとかで好きになろうとすることは、愛ではありませんね。恋でもありません。「好き」は感情ですから、「好き」になろうとすることは「好き」だという感情をもつこととはいえますが、そもそも感情はもとうとしてこみ上げるものではなく、もとうとしなくてもこみ上げるものが感情ですので、もとうとしてこみ上げるものは「感情」ではなく「つもり」または「情け」です。「いい人だから好き」とか「応えてあげたいから好き」というものは、本当の意味での「好き」ではなく、こみ上げてくる感情としての「好き」でもないのです。

「好き」になろうとするとき、それはもはや「好き」ではない証拠であり、「好き」になろうとして「好き」になったものは、「つもり」または「情け」でしかなく、それは相手を見下げた行為であり、お互いに尊重しあう「愛」とはかけ離れた、似ても似つかない「偽りの愛」です。

もちろん、ノゾミさんに負けたくなくてアキラさんに愛情をそそごうとするヒトミさんも「偽りの愛」でありますから、3人の中で唯一本物の愛に近いのはノゾミさんだけということになります。

それはさておき、これを「感謝」の感情に置き換えて考えてみましょう。

「感謝」も「感情」であり、もとうとしてもつものではなく、こみ上げるものです。もとうとした時点で「偽りの感謝」であることが確定してしまうのです。

「感謝する心が大事」だと思いこんでいる人が、「感謝する心をもてるかどうか」を考えるとき、それは感謝していないことをすでに決定してしまうことに気づいていないのです。

これはすべての感謝に当てはまります。「今すでにある幸せに感謝しよう」というとき、そういっている本人、勧めている本人が「今すでにある幸せに感謝していない」ことを証明してしまっているのです。

「親に感謝しよう」も同じです。感謝しようとせずともこみ上げる「感謝」の気持ちが本当の意味での「感謝」であって、それ以外の「感謝」はマナーや社交辞令でしかあり得ないのです。

では、「感謝することの大切さ」の本質は何でしょうか。

それは、「感謝しようとすること」が大切なのではなく、「感謝の気持ちがこみ上げてくること」の大切さをいっているのです。

感謝の気持ちが素直にこみ上げてくることが素晴らしいことであって、感謝の気持ちがこみ上げてこないことが残念なこと、あるいは悲しいことであるといっているわけです。

なぜこみ上げてこないか。それは本当の自分を生きていないからです。

人に親切にしてもらったのに「すいません」といい、心の底から申し訳ないと思ってしまう人がいます。

愛されているのに、そのことを素直に信じられない人がいます。

美味しい食事を振る舞ってもらったのに恐縮してしまい、味わえないで食べている人がいます。

十分幸せなのに、あるいは苦労しているのに、自分は楽しんではいけない、幸せを感じてはいけないとさえ、思いこんでいる人がいます。

「感謝する心が大切」だと知るべき人、学ぶべき人とは、こういった素直に喜べない人、謙虚すぎる人をいうのです。

何がうれしくて、何が喜ばしいかを自分で気づいていない人は、人に感謝の気持ちがわきません。

最悪の場合、マナーで感謝している場面で、感謝の気持ちをもつべきと思うあまり、喜ばしいことと自分にいい聞かせて、「自分はうれしい」「自分は喜んでいる」と思いこんでしまっている人さえいます。

こういった人の共通点は、「自分は何が好きか」「自分はどんな人間になりたいか」をいえません。

本当の自分を生きていないからです。

いろいろと思いこんでいても、自信のなさや虚無感にさいなまれている人は多く、どうしたらいいかいつも悩んでいます。

そこで「感謝する心が大事」と聞けば、そうすることで幸せになれると思いこんでしまうのです。

それでは絶対に幸せにはなれません。

自分が感じたことを尊重し否定せず、自分の本当の感情以外の感情をもとうとしないことです。

悲しいときは悲しみ、腹を立てているときには腹を立て、笑いたいときには笑う。マナーの問題があれば気をつけるべきですが、許される場面では、こみ上げるすべての感情を肯定することです。こみ上げてこないなら、何が好きで、何が嫌いで、何が美味しくて、何が悲しくて、何が腹立たしいかを探します。

すると、本当の自分で生きられるようになり、感謝の気持ちがあるときには自然に感謝の気持ちがこみ上げてきます。

マナーの感謝と、本心の感謝はちがうのです。

本心から感謝しなきゃとは絶対に思わないでください。

そして最後に、人間の心を読み通す神仏は、感謝しようとしていることもお見通しです。
だから、ただ喜ぶことだけが、神仏への感謝になるのです。

幸せを感じたら素直に喜んでください。うれしいことがあったらはしゃいでください。

「ありがとう」なんて言葉は、いらないのです。

あなたが心底喜んでくれることが、神仏への感謝になります。

「喜び」こそ、「感謝」の本質なのです。

あなたは素直に喜んでいますか?

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